彼が、赦しの牙を彼女に与えた時、

一瞬、この夜が明けたのかと思うほどに、彼女の意識は白んだ。

そして、あの鳥の様に赤い血が、ゆっくりと、彼の牙と共に舞う中、彼女の意識は、
同じ様にゆっくりと薄れていった。


彼の声を、微かに記憶に残しながら。




夢を見ているのか、
記憶を辿っているのか。






壊れかけた人形を持った少女は、渺漠な荒地にいた。
少女は、さして興味の無い様子で辺りを見回した。白い、何の色も無い景色と、砂漠。
砂漠の色…何色だったかしら。思い出せず、手にある人形を見る。
あなたにだけは色があるのね、と、そっと人形を撫でた。
顔と左手に包帯を巻いた人形。どうしてこんな怪我をしたの?と訊きながら、何となく色の無い砂漠を進んでいった。
どれだけ進んだか判らなくなった頃、黒い髪の女性に逢った。
周りの景色に色は無いのに、彼女には色がある。何処と無く奇妙でもあった。彼女は独り、ぽつんと砂漠にいた。
知った顔の様な気がしたが、誰なのかは思い出せない。自分と、とても近い存在だった様な気がするのに。
じっと見つめていると、彼女は咲いかけてきた。ああ、あの咲い方は、自分ととてもよく似ている。
思いながら、微笑み返した。
探し物をしているの、と彼女は言った。
何を探しているの?と訊くと、彼女は少し困った様に微笑んだ。
あなたと同じものよ。彼女はそれだけ言った。
少女にはよく判らないことだったけれど、そう、疲れない?と彼女に訊いて見た。
彼女は少しの沈黙の後答えた。今は、まだ。だけどこれから先はどうかしら。
疲れたら、どうするの?探す事を諦める?
さあ、どうかしら……。…判らないけど、…終わらせることは容易いものね。
少女も彼女も、少しの間、お互いを見つめていた。少女が先に口を開いた。
…私は諦めないから。
彼女の方は何も言わず、静かに咲った。
もう一言、少女は言った。この人形の側にいてあげて、そう言って人形を差し出した。
どうして…?と彼女は訊いたが、そっと人形を受け取った。
少女は少し、ほんの少し哀しそうな顔をして答えた。私はその人の欲しいものを知らないから。でも、あなたなら。
…そうね。彼女は優しく人形を撫でた。先、少女がしたのと同じ様に。
もう逢うことはないわね。少女がそう言って、二人は別々の道へ歩き出した。
ふと振り返ると、少女の姿はなかった。
……そうね、一緒にいきましょうか。
壊れかけた人形を持った彼女は、虚空の下の砂漠を歩いていった。






左手の無い男と逢ったのは、オアシスの近くだった。
顔の派手な傷よりも、手首から先の無い左手に無造作に巻かれた包帯が痛々しかった。
オアシスにすら色は無いのに、彼にだけは色があった。
彼が誰なのか、それも思い出せない。誰よりも、よく知る存在だった様な気がするのに。
彼は、まるで彼女を待っていたかの様に、そして彼女も、彼と逢う事が全く自然なことであったかの様に、
お互い、ほんの少し眼を合わし、それから黙って隣に並んだ。
暫く何の会話も交わさなかったが、やがて彼女が言った。
あなたも何かを探しているの?と。
彼はそれに答えず、彼女もそれは判っていたことなので、何も言わなかった。
それからまた訊いてみた。
痛くはないの?と。彼の左手首からは、ほんの少し血が滲んでいた。
彼は、初めて口を開いた。
慣れちまうもんさ。大したことじゃねえ。
そう言って、少し嗤った。
痛みも、悲しみも、下らないものだ、そんなものは何も感じなくなったと、そう聞こえた。
初めて逢ったというのに、そんな彼に酷く惹かれた。
私のこの手をあげましょうか、と尋ねてみた。
彼は、そう言った彼女の眼を見た。
初めてまともに眼を合わした。
炯炯たる眼光を放つ彼の瞳は、何の温かみも持たない、薄茶色の瞳だった。
ああ、そうだ、砂漠の色はこんな色だったと、彼女は彼の瞳を見ながら思った。相変わらず周りの景色に色は無い。
けれど彼にさえ色があればいいと、そう思う。
自らその手を捨てるってのか?抑揚の無い声で彼は訊いた。
あなたが望むなら、と、そう答えた。
彼は低く嗤い、言う。
クク…そういうのをバカってんだ。
そう……残念。そう答えて、また訊く。
そうね…じゃあ…何を探しているかくらいは教えてくれない?あなたの手のかわりくらいには、なれるかも。
彼は少しの間黙考した様子で、そして言った。





理想郷を、探しているのだと言う。




理想郷―――どこにもない場所。
そんなものが見つかる筈もない。
どこにもない場所が存在しうる筈がないのだと、そう思いながらも話を聞いた。





その為にはまず見つけねえといけないものがあるのさ。
そう言って彼が口にしたのは、どこかで聞いたことのある、かみさまの名。
かみさまに逢う方法。彼女はまるで興味がなかったけれど。彼女は知っていた。



教えてあげましょうか?その場所を。



まるで興味がなかったけれど。
ただもう少し、彼の側にいたくなった。

彼が誰かも、思い出せないままに。










急に痛みが戻ってきた。
何か、夢を見ていた様な気がするが、思い出せない。
体中が酷く熱い。
もう、痛いかどうかすらも判らなくなっている。


痛い。
悲しい。
そんなもの忘れてしまったと、そう思っていたのに。

まだ、私はあなたのところへは行けないみたい。

周りで全てが崩れて行っている。
もう一度、あの人の姿を見ようとした。
けれど、目の前は霞み、もう崩れて行く全ても見えない。
また、意識が白くなってきた。
音も、声も、何も聞こえない。
せめて、あの人の声を聞きたいと、最後にそう思った。


あの人の名前は何だったか……――――――









ある時、彼に尋ねてみた。
「私が望んだら、あなたは私を殺してくれる?」
それを聞いて、彼は薄く嗤った。
「生憎おれは他人の願いなんざ聞いてやったことが無い」
「フフフッ…ええ、よく知っているわ」
「お前が望んでなくても殺してやるさ……おれがその気になったらな」
「まあ。私はあなたにただ従っているのに、あなたは私の願いをきいてはくれないの?」
「おれが決めることだ。お前はおれのものだからな」
「フフ……酷い人」
そう言って、彼に口付けた。







彼の側にいることを望みながら




いつかはそうなるのだと、判っていた。
あなたの罪過は、あまりに多く、そして重い。



罪には罰を。
あなたには報いを。



そしてそれは、私にも…――――――







昏い昏い闇の中、彼女は人形を抱いていた。
少女に貰ったあの人形。
あれからずっと一緒にいた。ずっとずっと。
これからもずっと一緒にいたかったけれど、それはできないと知っていた。
だから、不意に人形が崩れた時も、驚きもせず、ただじっと見ていた。
目を逸らさず、崩れて行く人形を見つめていた。
崩れて行った人形は、次第に砂となり、そして闇に消えた。
後には、彼女ひとりが残った。
ずっとひとりだった。
だからただ、前と同じになっただけ。


さよなら、と小さく呟いた。








「全部、終わったわね」
「ああ」
「何も、手に入れられなかったわね」
「そうでもないさ。下らねえものなら腐る程奪った」
「フフ…そのどれにも興味なんて無い癖に」
「ククク…お前の命も、奪える所だったがな」
「…不器用な人。ちゃんと奪ってくれれば良かったのに」
「…そうだな」
「だから私、どこへもいけなくなってしまったわ。…あなたのところへも」
「ハッ…最初からお前はおれのところへなんざ来れなかっただろう」
「知ってたのね……ずるい人」
「お互い様だ」
「…………」
「…………」
「…結局…私も、あなたも……欲しいものは手に入れられなかったのね」
「……どうしようもねェ事なんざ世の中には腐る程ある。一番欲しいものなんざ手に入らねえもんさ」
「……私も……あなたも……?」
「………」
「…教えてくれないのね。最後まで酷い人」
「言っただろう。…おれは他人の願いなんざ聞いてやったことがない」
「ええ…よく知っているわ…」
「…なら判るだろう…………もう、終わりだ」
「……そうね」
「もう、始まることもないだろうさ」





「さようなら」












相変わらず傷は熱を帯び、止まることなく血は流れ続けているが、それでも死ぬ事は無いだろう。
やはりあの人は願いを叶えてなどくれなかった。
また、この世界で生きねばならないのだろう。
あの人もいないままに。



この褐色の大地の上で生きてみせろ。




こんな時になって、あの人の名を思い出した。
もうここにはいないのに。
もう共に生きることなど叶わないのに。


いもせぬ彼の名を、独り、ぽつりと呟いた。











  *えり*
「咲う」と書いて「わらう」と読むそうです。私も最近まで全く知りませんでした。
 意味は「口元をゆるめて“わらう”、花が“さく”」だそうで、「こりゃロビンちゃんにぴったりJAN」と思って、  ここぞとばかりに使ってみました。
 クロコダイルさんの左手…ある様な気がするんですけどまあ都合上…
 ここまで読んで下さって有難うございました!

 
                               

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