この世界は寒い。
意識が周囲の微かな音を捉え、肌にあたる冷たさを感じて、
彼女は重い瞼をゆっくりと開けたが、その眼は何も認識していなかった。
今のこの世界を認識したくないという、そんな思いが彼女の心の片隅にあったのかもしれない。
僅かに開けた瞳は、じっと前を見ながらも、意識はその光景を認めてはいなかった。
ぼんやりとした頭で、自分は何をしているのかと考えた。
ああそうだ、店を開けなきゃ、と思ってからフッと気付いた。
気付いてから、こらえきれずに声をあげて笑ってしまった。
店を開ける?開ける店も無いのに?
「……バカね……」
笑いを収めると、彼女は軽く溜め息をついて抱えた膝に顔を埋めた。
“ここ”へ来てからもう何日も経つというのに、まだ私は―――……
この“平和の砦”へ来てから幾日経っただろう。
暗いこの世界にいると、時の流れを忘れてしまう。
ここは僅かに光の入ってくる小さな窓があるばかりで、あとは冷たい壁があるだけだった。
光の入ってくる窓など無くてもいいのに。光など眩しいだけだ。
海の底は暗くて、彼女を酷く無気力にさせた。
その無気力さは、彼女を泥のような眠りへと誘い込む。朝寝て目覚めると夜だった、ということもしばしばあった。
それゆえ彼女は朝夕の区別さえも曖昧になってきていた。
“あそこ”も少々退屈ではあったけれど、あのくだらなさや平和な空気はそれなりに楽しかった。
ここはなんて退屈で冷たい世界なのだろう。
そう思って、また溜め息をついた。
それに、
この世界へ来て、気付いてしまった。
「゛ミス・ダブルフィンガー"」
規則的な足音をたててやって来た海兵が、ガシャン、と音を立て、彼女の前の重い扉を開けて言った。
「出ろ。取調べの時間だ」
反抗する気もおこらず、億劫そうに立ち上がって従った。
あそこもここも、退屈だった。
ただ違うのは、扉の向こうにある世界。
そういえば、あの名を聞くのも久しぶりだった。
取り調べにも、いい加減飽きてきた。
何度目かの取り調べだったが、いつもと同じように、彼女は質問には応えなかった。
自分の元ボスへの忠誠心だとか、他の社員を庇う気持ちだとかがある訳ではない。
ただ、応える気にならないだけだった。
けれど一度だけ、質問に応えた事がある。
――゛お前達"がしてきたことは何だ?
と訊かれ、彼女はあまりに残酷で美しい笑みを浮かべて、言った。
「生まれてきたから生きただけ」
その答えに困惑した様子で取調べ官は眉をしかめたが、彼女は続けた。
「それを罵るのも、憎むのも、罪と名付けるのも、どうぞお好きに。
生まれてきたから生きた、゛私達"にとってはただそれだけのことよ」
彼女がここへ来て発した言葉はこれだけだった。
今日も相変わらず、取調べ官の独り言のような尋問だ。
これ以上続けても時間の無駄だ、と彼女がすぐに返されるのもいつものことだ。
この日も10分と経たずに、彼女は解放された。
退屈だわ……。
何人もの屈強な海兵に囲まれ、もと来た薄暗い廊下を帰りながら彼女はぼんやりそんな事を思った。
だけど退屈だなんて思ってられるのも、あとどれくらいかしら。
いつもの癖でキセルを取り出そうとしたが、゛海の手錠"に拘束された両手に気付いて今日何度目かの溜め息をついた。
それから、そういえばアレも没収されてしまっていたと思い出した。
何となく口元に淋しさを覚えながら歩みを進めた。
遠くに聞こえた足音に、彼女はフッと顔を上げた。
まるで聴力を失ったかの様に、周りの音が聞こえなくなった。
けれど、ただ一つの足音だけは、はっきりと聞こえる。
よく、耳にしていた足音。
ここへ来てからあれ程重たく感じていたからだが、急に軽くなった気がした。
薄暗い通路の向こうから、男が歩いて来る。自分と同じ様に、何人もの海兵に囲まれ、手錠をかけられて。
たかが囚人一人を取調室へ連れて行くだけだというのに。
その光景があまりに滑稽なものに思えた。
けれど顔に出しはしなかった。
彼も、彼女も、真っ直ぐと前を見据え、
互いに視線を合わそうとはしなかった。
すれ違う瞬間が、やけに長く感じられた。
聞き慣れた足音が自分の後ろで遠ざかり、またけだるい無力感がからだを支配してきた。
もはや自分の足音も耳に入ってはこず、周りの景色の存在も忘れ、気付くとまたあの暗い海の底にいた。
彼の姿は、あの時以来ずっと見ていなかった。
相変わらず気難しそうな顔をして。
変わってないわねぇ、と微かに微笑んだ。
コツン、と冷たい壁に背を預けて、頭上を仰いだ。
今は夜らしい。
小さな窓から彼女には眩しすぎる月の光が、きらきら輝きながら降って来ている。
光は彼女の影をつくりだし、あなたはここにいるのだと、訴えかけてくる。
こんな光など、いらないのに。
この世界へ来て、気付いてしまった。
あまりに突然に。
私達に、居場所など無かったのだと。
それはあまりに当然のことで、どうして今まで気付かなかったのかと思ったくらいだ。
゛世界"は、私達など望んではいないのだから。
不意に思った。
人形の様だと。
力無く足を伸ばし、両の腕を地に落とし、背を壁にもたせかけた自分は、
まるで人形の様だと。
壊れて、要らなくなって、捨てられたあやつり人形。
そして今度は、この世界からも捨てられようとしている。
彼女の唇が僅かに形を変え、辛うじて微笑みととれる表情を作ったが、
相変わらずその瞳は何も見てはいなかった。
ねえ。
私達、どこになら存在していいの?
02.12/28 えり
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