あなたどうぞわたくしを、撃ち抜いて下さればよいのです。




其の人の顔を流れる血があんまり赤くて綺麗なので、彼は指でその跡を撫でてみた。

ぬるりとした、温かいような、冷たいようなそれが、彼の指を染めた。其の人の顔を流れるものと同じ色である。

けれどその色はあまりに見慣れすぎたもので、最早彼の心の奥底から、何の感情も呼び起こさないようであった。

彼はその指で其の人の頬をゆっくりと撫でた。触れられて微かに震えた其の人の頬に紅い線が三本引かれたが、

それでも其の人の瞳は閉じられたままなのだ。

「…いい加減…」

紅い線は方向を変え、其の人の唇まで侵し始めた。同時に彼は其の人の左腕の上にある自分の右足に、僅かに力を込めた。

「…目を開けたらどうですか」

足の下に、其の人の脈の蠕動を感じるような気がするが、それも直ぐに錯覚であると気付く。

より一層彼は足に力を込めてみるのだが、けれどやはり体温すらも感じられないのであった。

それでも彼が尊大に馬乗りにした身体から其の人の胸の鼓動が感じられる。彼は一先ずそれで満足した。

「あなたが目を閉じていようがいまいが、目の前の現実は変わらない」

一瞬、其の人の唇が開かれたが、其処から言葉が発される事は無かった・・・しかしその唇が閉じられるより早く、紅く濡れた親指がそれを阻む。

「…ッ…、」

「…何か言いたい事があるのなら言って頂きたい、」

ゴリッ。踏み躙る。其の人の左腕を。冷たい床と冷たい靴底に挟まれた其の人の腕は、翻って熱を帯びているであろう。痛みの熱を。

其の人は歪ませた顔を彼から逸らそうとするのだが、彼はそれを許さない。

「…我々はずっとあなたの言葉を待っていたのに」

「…それは世界の為のものだったのに」

「…なのにあなたはその口を開こうとしなかった」

「…あなたはあなたの我が儘で、世界を見棄てるお積もりなのか」

初めて其の人が言葉を発しようとして、それを感じた彼は、其の人の口を自由にしてあげた。

「それは、お前らだろう」

彼は続けさせた。

「お前らはお前らの我が儘で世界を滅ぼそうとしていやがる」

間髪入れず其の人の首元を押さえつけると、其の人の口から呻き声が漏れた。

押さえつけた手から其の人の脈を感じて、彼はその手に力を込めてみた。

「言葉に気をつけ給え…」

ああ人間のからだというのは、こんなにもあたたかいものだったのか?

其の人の手が彼の腕から逃れようと足掻いていた。其の人自身は満足に呼吸も出来なくて、苦しそうだというのに。

この腕から逃れられるとでも思うのか。この、もう随分前から真ッ赤であった腕から?

彼はじっと其の人を見ていたが、不意に緩りとその手を開いた。

自由になった其の人の喉が、突然の解放に痙攣する。其の人の咳き込む声が暫く響いた。

やがて全ての音が消え、辺りに静寂が再び広がった。

静かだ・・・静かで寒い・・・そして昏い・・・自分は、自分達は、ずっと前からこんな場所にいる。蛍の光ほどの輝きも無いのではないかと思う。

けれどもそれで好いのだ…自分達はもっと大きな光に導かれているのだから…

紅く濡れた其の人の顔を見つめ、彼は首を傾げた。いったい、自分は何に執着しているのか。それが解らない・・・

また先程と同じ様に、緩慢な動作で其の人の右手を取った。其の人はされるがままである。

いったい、自分は何に執着しているのか。それが解らない・・・

解らないけれども、その執着は酷く疎ましく邪魔なものなのだ……それならば。

「あなたはその手に握った銃に、気付いていないのか」

初めてである。其の人の目が開かれたのは。その眼は自身の右手に握られた銃を見つめていた。

「どうしてこの胸を、撃ち抜いてくれないのか」

それから、彼が其の人の銃を自分の胸に当てたとき、初めて其の人の目は、現実を見た。

ああ。

・・・ああ。

彼は身を屈ませて、片方の手で、其の人の頬に触れた。闇色の服と同じ闇色の髪が、ふわりと其の人の上に垂れた。

そうだ…やっと見てくれた。呟きは其の人の耳には、いや彼自身の耳にすら届いていなかった。

彼は銃を握った其の人の指を握り締めた…そうだ…この疎ましい思いを。

「どうぞ、撃ち抜いて下さい」





真ッ赤なので御座います、真ッ暗なので御座います、何も解らないので御座います、

此処には蛍の光すらも無いものですから。




05.1.21


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