何故だか涙が零れ続けた。 自分達で傷つけておいて、何て勝手な、矛盾した涙。 組織の為に働く術ばかりを学んできて、こんな涙を止める方法などあそこでは教わらなかったから、 私は零れ落ちる雫をそのままにしておくしかなかった。 この人が死ぬ筈の無い事は私自身が解り過ぎるほど解っている。昨夜のあれはただの”警告”で、情報も得ないままで彼らがこの人の命を奪うようなミスをする筈がないのだから。 なのにどうして私は泣いていたのだろう。 堪えようとしても構わず涙が溢れてきたのだろう。この人が死ぬ訳が無いのに。ぎりぎりの所で生かしたに決まっているに。 私は何をあんなにも不安に胸を締め付けられていたのか。任務遂行ができずに終わってしまうかもしれないという類の感情ではなく。 彼らが部屋から出て行った後、私は椅子を引いてアイスバーグさんが寝ているベッドの隣に腰掛ける。 昏睡状態から目覚めたばかりのアイスバーグさんは、まだ呼吸をするのも辛そうだった。 「少し、お休み下さい、アイスバーグさん」 罪の意識など欠片も感じず、罪深い私はアイスバーグさんに微笑みかける。 「私がそばに、ついていますから…」 安心してお眠り下さい。少なくともその間、私はどんなものからも貴方をお守りします。 アイスバーグさんは苦しそうに浅く息を吐き、口を僅かに開いて少し置いてから言った。 「ンマー…悪かったな、カリファ…心配、かけた」 「とんでもないですわ、アイスバーグさん、アイスバーグさんがそんな事を仰る必要はありません」 「いや…あァ、街中大騒ぎなんだろう、会社も…仕事が――」 「アイスバーグさん、お仕事等の事は私共にお任せ下さい、スケジュール調整も何とかなりますし…それよりも、早くお元気になる事が皆さんにとっても何よりの事になるんですから」 アイスバーグさんは浅い呼吸を繰り返す。迷うように視線を彷徨わせてから、 「ああ、すまんが頼んだ、カリファ…少し寝るよ」 そう言ってやっと眼を閉じた。私はアイスバーグさんが完全に眠りに落ちたと確認できるまでじっと注意深く待った。 待つ事には慣れている。これまで5年も待ったのだから。 腰を浮かせて、ハンカチでアイスバーグさんの顔の汗を拭った。白鼠のティラノサウルスは、心配そうにアイスバーグさんの胸の上で鳴いている。 アイスバーグさんは動物が好きだ。動物だけでなく、この人は全てを愛している。全てを愛するこの人は、だから全てから愛される。人も、動物も、皆この人が好きなのだ。 いいわね、あなたは名付けて貰えて、と小さな鼠に私は言う。 黒猫のブーゲンビリア、小型犬のダージリンティー、インコのナハトムジーク、今までもアイスバーグさんに名前を貰った動物達は沢山いた。 優しい(そして可愛いもの好きの)アイスバーグさんは捨てられた動物達を放っておけなくて、街で見かけるとすぐに拾って帰り、貰い手が見つかるまで会社に置いておくのだ。 例え朝の分の餌は殆ど私が用意する事になっても(アイスバーグさんが起きるのを待っていてはあの子達は空腹で騒ぎ始めてしまっていた)、私は彼のその行動を止めないし、止めようとも思わない。 どうか私も名付けて頂けませんかと願ってみる。 私を。アイスバーグさん。私に。私を名付けて、何か別の私ではないものへと変えて下さい。せめて貴方の前だけでも。貴方を傷つけないもののふりをさせて欲しい。 私達は随分待ったのに、何故貴方はその口を開いてくれなかったのか?そうすれば、私はやがて明ける夜の様に、静かにゆっくりと貴方の許からいなくなれたのに。 貴方の優しい思い出になって。 アイスバーグさんの胸の上にそっと両手を重ねておいた。目を閉じて私はその手の上に頬を置く。アイスバーグさんの熱が、鼓動が伝わってくる。 私は鼓動の音が好きだ。この音にはきっと世界の全てが詰まっているのだろうと思う。瞳を閉じた暗闇で、鼓動の音を聴いていると、とても静かに穏やかになれる。 指ひとつ。 私はたったそれだけを、心臓に向けて動かすだけで、この人の全てを奪う事ができるのだ。世界の全てが詰まった音と一緒に。 そうすれば、この人は私のものになるなどとは思われない。そんな自分勝手な想いは決して許されない。私には何もできはしない。私はそういう存在なのだ。 ただ今は、こうやって貴方の世界を感じている事に、ほんのちょっぴりの幸福のようなものを味わうだけ。 どうか私も名付けて頂けませんかと思ってみる。 そしてこの感情にも、名前をつけて下さい。人間は、何か解らない存在に、名前をつけて認識する事で初めて安心する生き物です。だから私のこの感情にも、名前をつけて下さい。私を安心させて欲しいのです。 アイスバーグさんの鼓動に混じって、ティラノサウルスがか細い声で鳴くのが聞こえた。 火の粉が舞っている。 綺麗だ。 私は炎に呑み込まれていく貴方を眺める。 私はただ貴方を見るだけ。闇に身を包んだ私は、貴方を助ける事もできない存在。そして貴方を傷つける事も。 この私を見てくれましたか。私は貴方のどんな思い出になりましたか。 優しさも悲しみも絶望も、私は貴方の全てを貰います。その内に昆虫を美しく閉じ込める琥珀の様に、貴方の思い出を私の中に。 それを時々水の中から拾い上げて、雫で輝くそれを見つめて、大事にまた元の場所へ仕舞うのです。 「どうぞ、お眠り下さい、アイスバーグさん」 そしてせめて、私は墓守に。 安心してお眠り下さい。少なくともその間、私はどんなものからも貴方をお守りします。 もう誰にも貴方を傷つけさせず、貴方を煩わせる事も無く。宵闇のような世界の中でお眠り下さい。 そうして初めて貴方は私のものになる。 私の事は忘れて下さい。それでも貴方は私の琥珀の中にあるのだから、私は何も失わない。もう随分色んなものを失くしてきたのですが。 私は貴方をお守りします。 それから貴方が眠る地の上には、まるで星屑の様に花束を散らせましょう。花びらは貴方の上に降り注ぐ。 どうか私も名づけて頂けませんかと呟いてみる。 貴方の姿が炎に呑み込まれた。私の最後の呟きも、一緒に呑み込まれて消えた。 綺麗だ。 火の粉が花びらの様に舞っている。 それでは、さようなら。 |