「最大の恐怖とは何だと思う」
傍らにある器から葡萄を一房手に取り、神・エネルが言った。
尋ねられた侍女は目をぱちくりさせて、思わず辺りを見まわした。私以外に誰かいないかしら、と。
「あの…わたくしにお尋ねなのですか?」
「お前しかいないだろう」
そうなのだ。
いつも神・エネルの側には自分も含めて最低3人は侍女がいるのに、つい先程神兵長より用事を言い付かって、今この場にいるのは自分ひとりだけなのだ。
「あの…すいません」と、侍女は上目使いに神・エネルを見、おどおどと言った。「わたくし、エネル様のご満足のいくお答えができないかと…」
神・エネルは葡萄を一粒指にとり、口に入れた。「別に良い。お前の考えを答えれば良いのだ。さァ、最大の恐怖とは何だと思う?つまり、一番恐いものは?」
侍女は泣き出しそうに眉を困らせた。
そんなことを言われても困ってしまう。自分はただの侍女なのだ。侍女というのは神の身の回りのお世話をするもので、そして自分も例外ではなくて…。
神官達のように世の理というものを熟知していたり、祭司の人達のように博識であったりするわけでもない。自分はただの普通の侍女で、でも自分に尋ねているのは全能なる神である方だ。ああ、神官の方々やヤマさまがいらっしゃればいいのに…。
いや、彼らでなく誰がいても、少なくとも自分よりはマシな答えが返せただろう。
そう思うと、侍女は本当に泣きそうになった。
「おいおい何をそんな顔をしている。そう難しい事を聞いたわけでもないじゃあないか」
「申し訳ありません…わたくし…」
せめてもう一人誰かいれば良かったのに。自分ひとり、一対一では逃げ様が無い。
どうして私なんだろう。
「ではお前の恐いものは何だ」 神・エネルは顔の前にぴッと人差し指を立てた。
「人でも物でも何でもいい、思いつくだけあげてみろ」
それなら何とか答えられそうだ。ホッとして侍女は自分の恐いものを考えていった。
とりあえず今一番恐いものは神の怒りに触れることだ。次に水、特に海。子どもの頃に溺れてからだ。大きな音も恐い。いや、これは恐いと言うより苦手なものかも。神官のシュラさまも少し恐い。それと暗闇と太る事と怒られる事と・・・
考え考え、ひとつひとつ答えていった。
全部言い終わると、神・エネルは声をあげて笑い出した。「ヤハハ、なるほどなるほど!面白い答えだ」
侍女は今度は顔を赤くさせた。やっぱり今の答えはおかしかっただろうか。
神・エネルは笑っていて、その顔を見ても軽蔑の意味で面白いと言っているのか、それともただ単に本当に面白くて笑っているのか判らない。
「なかなか興味深い答えだった。やはり人それぞれだな」
神・エネルは上機嫌に葡萄を口に放りこんだ。
「シュラが恐いか、ふふ、確かにな。あれは近寄りがたいだろう。シュラに言ってやろうか」
「え!そ、それは、あの、すいません、どうかご内密に…」と、侍女は慌てて答えた。
「ヤハハハハ、冗談だ。言わないでおいてやる」
時々、この神・エネルという方が判らなくなることがある。
考えている事がつかめないのはいつもの事だが、時々特に。聡明な方であるのだけれど、何でもゲームのような感覚で捉えているところがあって、胸のうちが読めなくて、掴み所の無い雲のような方だった。
「あの…お気に障るかもしれませんが、エネル様にも恐いと思われるものはおありなのですか?」
半ば照れ隠しの様に侍女が尋ねると、神・エネルは驚くほどあっさりと、「あるぞ」と答えた。
「私が恐いものは永遠だ」
全能なる神に恐いと感じるものがあるとは思わなかった。だけど、永遠?永遠が恐いとはどういうことだろう。
「永遠に在り続けるなどと想像するだけで恐ろしい。ずっと何もかもが変わらないだなんて、とんでもないじゃあないか。それが不老不死なんていうものになれば尚更だ。自分ひとり、老いもせず、死にもせず…いつかは死にたくなる時がくるさ。その時に死ねなければ、どうだ?」
背もたれに身を預けて、ゆったりとした姿勢で神・エネルは言う。
侍女の立っている位置からだと横顔しか見えなかったが、恐ろしいと言いながらもその顔はやっぱり笑っていて、神・エネルの言葉は本気なのかそうでないのか判らなかった。
私をからかっていらっしゃるのかしら…?侍女は首を傾げてしまう。
「青海などでは大分昔から不老不死の薬なんてものを捜し求めているらしいが、そんなもの”この世”には…」と言いかけて、神・エネルはふと気付いたように「あ」と小さく声をあげた。「いや、あるか。あるな。うん、あるある」
頭の後ろで手を組みそう言う神・エネルに、侍女は驚いて尋ねた。「青海にあるのですか?この空に或るどの島ですら、そんなものは発見されていませんのに」
「お前青海で不治とされているガンという病を知っているか。そのガン細胞こそがこの世に存在する唯一の永遠の物質だ」
「病気が、ですか」 侍女は信じられないという風に言った。
「永遠は思わぬところに存在する。宿主である人間が死んでそのままにしておけばガン細胞も死ぬが、細胞を分離して一定の条件下で培養すれば延々と生き続ける。何故ならガン細胞にはアポトーシスの抑制が起きるからだ」
聞いたことの無い言葉だ。「アポトーシスとは何ですか?」
神・エネルは跳ね起きるようにして体を起こし、侍女の顔を見た。
「お前アポトーシスも知らないのか。学が無いなァ、そのくらいは学んでおけ。アポトーシスというのはDNAとタンパク質の複合体である…ああ、もうこの辺りの説明はいいか」
神・エネルは侍女に向かって自分の右手のひらを開いて見せた。
「胎児が母の体の中にいる時、手はこのような形をしていない。水かきのようなものがついているのだ。しかしそれは生まれ出でる間に殆ど消滅してしまう。細胞の中にはある一定の時期がくると自ら死んでいくようにプログラムが組みこまれているからだ。その細胞の自殺現象がアポトーシス。だが、ガン細胞にはそれが起こらないわけだ」
侍女は必死に神・エネルの言葉を頭の中で整理した。
「ええと…つまり、ガン細胞というものには死ななきゃっていうプログラムがないんですね?」
「…まァ、とりあえずそういう風に理解しておけ」
神・エネルは一度に葡萄を3、4粒もぎ取った。
「それはそうとしてお前死ぬことは恐くないのか」
神・エネルの言葉に、侍女は、あ、と口元を抑えた。
そういえばそうだ。あまりにも当然で、絶対的すぎてつい忘れていた。
命あるもの全ての元へ訪れ、逃れられないタナトス。
「さて先程の私の問いだが、おそらく大抵の人間は最大の恐怖は”死”と答えるだろうな。誰でも恐れる」 相変わらず真意の読み取れない笑顔で神・エネルは言った、「誰でも」
「それでは、”死”がエネル様のお考えになる最大の恐怖なのですか?」
残り8粒。そのうち1粒を取り、それを口にいれながら神・エネルは「違う」と答えた。
「教えてやろう。最大の恐怖とは”恐怖”そのものだ」
2粒目。プチッと小さな音が響く。
「人は恐怖することを恐れ恐怖から逃れたいと思う。…ああ、どう言えば判りやすいかな――具体的に説明できるかな――そもそも恐怖というものは人に先天的に備わっている自衛手段の一種で…つまりは本能なのだ。命に危険を及ぼすもの…まァ、獣とでもしておこう。それが自身に近づいてきた時恐怖心が働き、それから逃げる。獣を前にして恐いとも何とも思わずその場にとどまっていれば、そのまま獣に襲われて死ぬだろう。恐怖というのは本来そんな感じのものだったのだ。しかし――」
3粒目、4粒目。
「人には想像力という厄介なものも備わってしまった。例えば全く危険でも何でもない小さな犬を前にする。しかしこの犬大人しそうだがいきなり襲いかかってきはしないだろうか、と恐怖心が想像によって生まれるわけだ。お前がさっき言った暗闇なんかもそうだぞ」 と言って神・エネルは侍女をビッと指差した。
いきなり言われたので侍女はびくっと小さく体を震わせた。
「お前は何故暗闇が怖いんだ」
「それは、あの、辺りが何も見えませんし、何かが出てきそうですし、いきなり何か出てきたら凄く恐いですし…」
「そら見ろ、それも想像力の産物だ。実際何も出てきやしないのに。そうだろう?闇は想像力を肥大させるしな」
楽しそうに笑って神・エネルは葡萄を2粒食べた。
「死にしてもそうだ…生き物というものは自分を少しでも長く存在させる為に死を恐れる程度で良かったものを、人は必要以上に死を恐怖するようになった。死ぬ事は苦しいのか?痛いのか?死んだ後魂はどこへ行くのか?人は自分で地獄というものを考え作り出しておきながら、そこへ行く事を恐れている。ヤハハ、おかしな話だ。六道輪廻、試練は現世にも存在するものだ。生きる事すら苦しみのひとつ、執着を捨てさらねば理想の境地へと至る道に辿りつけはしない」
7粒目。残りは1粒だ。「だが、しかし」と言って神・エネルは右足を左膝にのせて姿勢を変えた。
「恐怖に囚われた人間ほど、操りやすいものはない」
そう言った神・エネルの微笑は、とても冷酷なものに変わっている事に侍女は気付いた。
「恐怖は伝染する。大勢でいれば尚。伝わり増幅し絶対なものとなり…簡単に支配できる。ここの住人を見れば判るだろう」
侍女は、はい、と頷いた。
神・エネルという方は…――
「恐怖に駆られた人間は仲間も裏切る、いとも簡単に。見せしめでも示してやれば更にな。不安は猜疑心を呼び猜疑心は恐怖を呼び、より強固なものになって人々の心に植えつけられてそして…ヤハハハ、善良な心を持った人間が一番支配しやすいな!」
そう言って笑う神・エネルの顔はまた楽しげなものになっていて、でもだからこそ余計に強く、侍女は思うのだった。
神・エネルという方は、強く、聡明で、掴み所がなくて―――
「お前も常に戒めとしておくがいい」 神・エネルは葡萄を1粒取った。
恐ろしい方。
「信じる者は救われるぞ」 神・エネルは最後の葡萄を口に放りこんで言った、「全ては神の御心のままに」













☆なじ☆
悩みに悩んだんですがワンピースの世界にゃガンなんぞ存在するんでしょうか…。
いや存在はするでしょうがアポトーシスとかDNAがどうちゃらっていうアレ(どれよ)は発見されているんでしょうか…いや…ウン…見逃して下さい。 あとガン細胞がどうのこうと言っとる所は私の理解力が足らんで何か間違ってるかもしれませんがそれも笑ってお見逃しを!
で、最後に神の御心とか自分で自分に尊敬語使っちゃってますが語路が良かったのでスイマセン。
ちゅーか初サキリリ小説の時もそうなんですが、キャラの性格よく判らんうちからこんなもんを…

02.12.17



小説TOP